弓の江戸販売を独占

日本橋の支店の共同経営と撤退

4代目利助は、3代目の長男として生まれ、1683(天和3)年に家督を継いだ。この元禄時代は、町人が台頭し、商業が著しく繁栄したころであった。4代目は親戚の嶋屋、釘貫屋と共同でそれぞれ出資し、江戸・日本橋に支店である松店(名義は松屋長左衛門)を開設した。

その後1774(安永3)年まで3軒で共同相続してきたが、嶋屋が店を独占しようとする計画が発覚した。この問題は訴訟事件となり、その結果、松屋は1778(安永7)年に西川家と釘貫屋の両家持ちとなった。しかし、その後も共同管理などでいろいろな問題が生じたため、500両で権利を釘貫屋へ譲り、西川家は松屋から手を引いた。

1695(元禄8)年には、3代目の三男・甚七と四男・利左衛門が共同で、下総国(千葉県)佐原村に出店を構えた。ここでは畳表のほかに、伊丹酒や灯油などの上方からの下り荷物、それに古着類など農民の必需衣料品を販売した。江戸の市中のみでなく、江戸近郊の農村へも営業の範囲を広げていったのである。しかし、その後、本家4代目利助に男子がなかったので、3代目の三男・甚七が5代目利助を継ぎ、四男・利左衛門が没したことにより、1717(享保2)年には下総の店を閉じることになった。

弓の江戸販売を独占

5代目利助が西川家の経営にあたった1715(正徳5)年から1745(延享2)年までの30年間は、ちょうど8代将軍徳川吉宗の享保の改革が行われた時代である。この緊縮・倹約政策と、貨幣の改鋳によって貨幣価値が高まり、物価下落と不景気が進行する極めて多難な時代であった。

そのような中、1737(元文2)年、当時経営不振に陥っていた京橋の弓屋・木屋久右衛門の店を5代目が買い取り、翌年から弓の営業に乗り出した。弓営業が軌道に乗るにともなって、木屋から引き取った京橋の店舗はつまみだな店から独立し、1741(寛保元)年、新規に万(かくまん)店として営業を開始した。

万店は、京都で仕入れた弓の江戸での販売問屋として出発したが、その後、西川家は京都下地屋(生産者)らと仕入れの独占契約を結び、京都で製造される弓の江戸販売を独占することとなった。

5代目利助は、七女・おしまに高野屋の長五郎を迎え、1745(延享2)年に家督を継がせた。
これが6代目利助で、彼は万店に続いて、京都寺町松原上ルに支店京(きょう)店を設置し、さらに事業を拡大させていった。

Column京都三十三間堂に現存する弓仲間の奉納額

徳川家の御用弓師となった9代目西川甚五郎をはじめとする弓仲間が、1844(天保15)年、三十三間堂に奉納した額が今も残っている。額は、長さ2間半、幅4尺で、重さは30貫という大きなもの。奉納額の裏に、西川甚五郎を筆頭に32人の弓仲間の名が列記されている。