萌黄蚊帳の創案

2代目甚五による萌黄蚊帳の創案

西川家の2代目は、初代仁右衛門の四男・甚五が1628(寛永5)年に相続した。2代目甚五は蚊帳について研究を重ね、このころ、縁に紅布を付け、布地に萌黄色の染色をほどこした近江蚊帳の象徴となる萌黄蚊帳を創案したと伝えられる。

2代目が箱根越えをしていた折、疲れ切った体を休めようと木陰に身を横たえた。その時、緑色のつたかずらが一面に広がる野原にいる夢を見た。つたかずらの若葉の色が目に映えて、まるで仙境にいるようだったという。「涼味あふれる緑に囲まれたシーンを目にすれば、蚊帳の中にいる人の気持ちを和ませ、爽快な気持ちにさせるであろう」と2代目は考え、このイメージを蚊帳に再現したと語り継がれている。

江戸時代の面影を残している明治初年ごろの日本橋
つまみだな

Column箱根越えの「夢の啓示」

2代目が箱根越えをしていた折、疲れきった体を休めようと木陰に身を横たえた。その時、緑色のつたかずらが一面に広がる野原にいる夢を見る。つたかずらの若葉の色が目に映えて、まるで仙境にいるようだったという。「涼味あふれる緑に囲まれたシーンを目にすれば、蚊帳の中にいる人の気持ちを和ませ、爽快な気持ちにさせるであろう」と考え、このイメージを蚊帳に再現。萌黄色に染められ、紅色の縁取りを施されて、登場したのである。この近江蚊帳誕生のエピソードは、近江の歴史を語るいくつかの史料に記載され、語り継がれている。

江戸の店の経営基盤を確立

2代目甚五には男子がなく、長兄・市左衛門の長男を養子とした。これが3代目利助である。3代目利助が家督を相続した1667(寛文7)年から江戸の店の営業成績を残した各年の勘定帳の写しが残っており、これを見ると、3代目の時代につまみだな店の経営が安定した基礎を持つに至ったと考えられる。

1671(寛文11)年には東回りの、翌年には西回りの航路が開かれ、近江・伊勢・京坂の商人が江戸に出店し、江戸の商業が定着してきたころであった。元禄中期である1695(元禄8)年あたりから武家屋敷の需要よりも、江戸町人の大衆需要が増大する。そのような状況にあって西川家は、江戸市中の発展に対応して経営の内容を質的に転換し、大衆販売に対応しながら、その取扱高を急速に伸ばした。また、営業規模の拡大にともなって、得意先の武家屋敷の数も年々増え、十数人の大名屋敷とのつながりを大切に続けて西川家は繁栄していった。

Column『萌黄蚊帳図』(近世風俗誌)

「そもそも近江蚊帳の出所は八幡の町より仕出して是諸国に広まれり(中略)毎日蚊帳縫女八十人余、乳縁付る女五十人、大広敷にならびたるはさながら是女護の島のごとし。されども是程の中に都めきたる娘はひとりもなかりき。玉に疵、すぎに出尻、たけが口の広さ。朝夕の食卓とて飯櫃にくるましかけて六尺三人引てまはり、平盛の杓子百足のあしのごとし。鞍馬毘沙門もかかる台所をまもり給ふべし。」
(井原西鶴『西鶴織留』より抜粋〈蚊帳仕立の有様〉)